私にとってのピアノ。
- 6月10日
- 読了時間: 4分
更新日:4 日前
物心ついた頃には…
既に弾いていた、ピアノ。
既にまわりとの戦いだった、ピアノ。
習いたくて始めたとか、好きで始めたとか、
そんな記憶もないまま。
はっきり両親に聞いたことはありませんが、
ピアノを始めたのは私の希望ではなく、両親の思いからだったのだと思います。
何故なら私自身が、同時期に始めた別の習い事を、「習いたい」とゴネて始めさせてもらえたと、うっすら覚えているからです。
ピアノは
共に育った親友、とか。
いつも側にいてくれた、とか。
私にとってのピアノは、年頃によりそんなあたたかい存在なだけだった、というわけでは、ありません。
鏡のような。
自身との境目がない、と言うような。
時には癒しであったり。
苛々するものであったり。
他にしたいことが出来なくなっていく虚しさだったり。
大人になり母親になるまでの長い長い間、私にとってピアノはハッキリ大好きだとは表しがたいものでした。
それでも続けて来られたのは、
"理屈で物事を考えない間に基礎が身に付いていた"からだと、今は思います。
ここで言う"基礎"というのは、
テクニカルなものというより、ピアノに向かう時間の習慣化というのも大きいですが、それらをどう"強制しないで"習慣化へもっていけるか、も、
保護者の手腕かもしれません。
そこから、
理屈で物事を考えるようになり"苦しい"と感じた時に
"自ら考え試していく"
"自身の些細な進歩を見逃さない"
それがあるかどうかで、道は分かれていくと私は自身で感じています。
「苦しいけれど面白がれる瞬間を知る。自力で試行錯誤出来る。」
そこへ早く辿り着ける事がベストだ、と。
もちろんどんな些細なことでも良いのです、試行錯誤というのは。
私が小学校低学年くらいの時までは、
両親揃って私が弾くとただただ喜んでくれて。
その様子の録音があったので、よく家族でそれを聴いて笑っていたので記憶はずっとありました。
そして小学校高学年あたりから、ひたすら面白がって聴いていた父がそのうち、もう少し突っ込んだ感想を言うようになり、
母はひたすら「もっと練習しなさい」と言うようになりました。
好きで始めた記憶のない、思春期のこの時期からのこれは、
当然、私からすれば母が苦手でした。
ですが今では、それは私にとって良いバランスだったのではないかと思います。
両手放しで応援してくれると感じる父が、一旦私の弾くピアノを認めてくれた上で突っ込んだ感想を言ってくれる事により、私が自分で自然に考えながら試そうとする事へと繋がり、
母の「練習しなさい」が、私自身の試行錯誤の時間を作る。
そんな連携を両親はもしかしたら故意に取っていたのではないかと、
今はそう感じています。
他にも沢山、自身が大人になり母親になってから思い当たったことが沢山あります。
特に思春期は学校でも目いっぱいアンテナを張り巡らせて、様々なことを抱えるようにもなって来ています。
それらに立ち向かう中でも、
個々により感じ方も考え方も対処の仕方も違いますし、同じ枠にははまらないでしょう。
私自身、よくピアノを続けて来たなと思う局面は、いくつもあります。
それらを大人になってからわかる、ということは、
どんなに紆余曲折があっても、
どうにか続けられていた、からです。
そこでやっと、
続けて来て良かった、と。
大好きだ、と。
長い時を経て、そう心から思えるようになる場合もあるのです。
だからこそ、
側にいる人間が、子どものピアノを聴く時間を少しでも作り、ともに楽しみ、
子どもが自発的に自身で考え試行錯誤する事へと導き、
双方の心の支えとなる"面白がるチカラ"を育てること。
そしてそれはピアノだけにとどまらず大切だということ。
自身に対しても、生徒のみなさんに対しても。
私はいつも、そう思っているのです。
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